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能登の手漉き和紙

和紙が漉きたいお嫁さん

遠見京美(とみ・きょうみ)さんは、和紙が漉きたくて、十代で金沢から能登半島の根っこに位置する仁行(にぎょう)の郷に嫁いできました。といっても、仁行は有名な和紙産地でもなく、義父となる人が一人で和紙漉きをしていたところでした。妻、嫁、母の三役をこなしながら、義父の手ほどきで紙漉きを習い、義父周作さんが亡くなってからは、その志を継ぎ、今では一家の中心として和紙作りに励んでいます。 そして今、息子和之(かずゆき)さんも、新しい和紙の表現に挑戦しています。Feature004では、独自の紙と灯りを作っている遠見母子を紹介します。

京美さんのことを語る前に、義父である遠見周作さんのことを語らなければなりません。私が初めて遠見家の漉き場を訪ねたとき、彼はすでにセピア色の写真の中で穏やかな笑みをたたえていらっしゃいました。ですから私の周作さんのイメージは、その写真から感じるお人柄と、10年前の季刊誌『銀花』で「紙舗 直」の主宰者坂本 直昭氏が生前の周作氏のことを記す一文からのものです。


 

坂本さんの文章からは、周作さんが、優しい心を持ちながら、一途に自らの情熱の対象に打ち込み、今まで誰も漉かなかった和紙を生み出してこられたことが読み取れます。
戦後の復興期、近場に和紙産地があったわけでもなく、彼が一人で紙漉きを始めた理由はわかりませんが、戦後の復興期には大量の紙が必要とされたことや、和紙漉きが比較的簡単な設備で始められる仕事であったことがあるかもしれません。まだ機械漉きが開発されていなかった時代のことです。
     

漆作家が和紙を使う

10年ほど前、輪島の木地師桐本泰一さんに、おもしろい紙を漉いている人がいる、と案内されたのが遠見さんとの最初の出会いでした。仁行川にかかるレールの廃材と木材で作られた橋を渡ると、たんぼの中にぽつんと漉き場が建っています。その2階で、てんぐさなどの浮き袋をもつ海藻が大胆に漉き込まれた紙を初めて目にしました。

今でも鮮やかに覚えているのは、この海藻紙は義父であった人が能登の海辺で採集した海藻を漉き込んで始めたものだ、と説明し、同じように私も海藻祇を漉いている、と語る京美さんの控えめな笑顔でした。周作氏は海藻ばかりでなく、近くの貯木場がもてあましていた杉皮に注目し、木から剥がれた杉皮が渦巻いている大胆な杉皮紙を漉くことを始めました。今で言う廃材利用です。この試みが30余年も前のことと知れば、それがどれほど画期的なことであったことかと思わざるおえません。このように材料そのものが表面に漉き込まれている紙は、当時、誰も漉いていなかったのですから。現在もこの紙はアメリカなどから注文が入るということです。
また、細かく砕いた杉皮を漉き込んだ紙は、輪島の漆作家角 偉三郎が好み、合鹿椀を入れる箱の箱張りとして使っています。優しく素朴で、かつ気品ある紙です。同じ三井に住む漆作家赤木明登も、漆塗りの下に貼る和紙は遠見さんのものを使っています。地元の作家たちに愛され、作り手の注文にかなう紙を作ることで刺激を受け、地元ならではの良い関係ができあがっているように見受けました。

 
 
雲龍紙〔杉皮〕    
     

野集紙の誕生

自然にあるものすべてを紙に漉き込んでみる、という周作さんの手法は、やがて京美さんの野集紙へと展開します。京美さんの漉く野の花の紙は、小気味がいいほどダイナミックです。繊細で可憐な小花を漉いくという世界とは無縁の、しっかり大地に足をつけて生活している人の安定感と、自然との一体感のある紙です。 能登の遅い春、いっせいに芽吹く野の花々を摘み、思いのままに紙の上に散りばめます。 秋にはすすきの穂や、実りの稲を米粒がついたそのまま和紙の繊維で封印。落葉樹の色づいた葉も、豆がらも、刈り終えた稲株さえ、京美さんの手にかかると楮や雁皮の繊維と馴染んでしまいます。 草木が枯れる冬には、能登の海岸に打ち上げられる海藻が格好の材料となります。すべての材料を地元の自然からいただくという、今はやりのエコロジカルな物づくりを、とっくの昔から自然体で実践しているといえそうです。

 
 
秋の野集紙〔コスモス、つりばな〕   秋の野集紙〔すすき〕
     

 


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