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『祖父 宗廣力三のこと』

大正3年生まれの宗廣力三(むねひろ・りきぞう)は、郡上紬で昭和57年に人間国宝に認定されました。紬縞織と絣織の直線や幾何学模様の着物は、民芸と言えども、とても知的で現代的な印象を受けます。
投稿してくださったのは孫の吉澤 朋さん。戦後の地方の町で復員した男達の寄る辺をもうけ、女たちの手に職を、と地元に残る手仕事の復元に向かった話など、肉親しか知ることのない人間味あふれるエピソードを記してくださいました。



名古屋からJR高山本線で美濃太田へ。そこで北濃まで72kmの道のりを2時間かけて進む長良川鉄道に乗り換えます。江戸初期の僧侶円空の生誕地とされるこの辺りでは、通り過ぎる駅舎にも円空仏が無造作に置かれていて、乗客の目を奪います。徳永駅で下車、そこから2キロほど山あいにある「古今伝授の里フィールドミュージアム」の<郷土が生んだ人間国宝 宗廣力三と民藝の仲間達展>を、まだ暑さの残る9月に訪れました。

1982年に紬織としては初めて個人で重要無形文化財に認定された宗廣力三は、私の祖父にあたります。祖父について聞かれると、深く考えることもなく「郡上紬を再興した人」と答えていました。でも、いまようやく祖父の作品と向き合える歳になり、思うのは別のことです。
私の手元に二枚の写真があります。一枚は、幕末、藩政の思惑に翻弄された郷土の若者を弔う「凌霜隊記念碑」の前で、祖父が理事を務めた青年団「凌霜塾」の仲間たちとのもの。岐阜県中から集まったという向学心に燃える若者、親が手を焼いて送られてきた者、それぞれみな精悍な顔つきをしています。そんななか、祖父(後列右から二番目)は口元に柔らかい笑みを浮かべていて、どちらかといえば、現代のいわゆる草食系男子にも通じる物腰の柔らかそうな印象で写っています。
そんな青年が、戦後の混迷期に地域の産業として郡上紬の再興を志し、40年間ひた走るなかで、全国で認知される特徴を持つ「郡上紬」を築きあげたのでした。

若き日の力三は、二ノ宮尊徳に感銘を受け、篤農家を目指していました。20代は農業と労働を通じた青年教育に情熱を燃やし、開拓農民の育成に務めます。しかしそうした青年教育は、太平洋戦争に向かって暴走を始めた国策と時代の流れの一部でありました。そして、31歳の時、終戦を迎えます。
呆然とする暇もなく、満州から引き揚げてくる仲間を受け入れる土地を開墾し、農場の共同経営に挑戦します。そして収入の糧として考えついたのが、先述の「郡上紬」でした。「紬を織りたい」「作品をつくりたい」といった願望よりも、「争いの種にならない仕事」、「生産過剰にならない仕事」、「いつの時代にも通用する仕事」という理由からの選択でした。とは言え、当時の「郡上紬」が地域性のある紬として認識されていたわけではありません。かつて日本のどの地域にもあったような素朴な縞、絣の端切れたち。しかし、持ち前の粘り強い研究心で、織りの可能性に挑戦し続けた祖父の手は、いつしか新しい意匠を生み出していました。
  導かれるように織りの道を選んだ祖父ですが、織を志す以前から、一貫して情熱を燃やしてきたのが「人を育てること」でした。祖父はまず研究生の良いところを褒めたそうです。“先生に救われた子がいっぱいいるのよ”と直接教えを受けた研究生は言います。別の生徒は“真の教育者だった”と没後20年以上経った今も、目頭を熱っぽくして語ります。祖父の書『織は人 人は心なり』からも分かるように、「心さえしっかりと養っておけば、技術はあとからついてくる」と信じていました。
そんな祖父の口癖は「今やらなければいつやる。俺がやらねば誰がやる」。当時の工房が6時起床であれば、5時に起きてその日の仕事の準備を整えている。力三の長男・宗廣陽助は“外から戻ってきた途端に畑仕事に出て、また翌朝も畑に戻っているような仕事ばかりの生活で、助手するほうはかなわん”と、冗談まじりに当時を語ります。祖父は、そうして常に自らを律し、鼓舞し、道を切り開いてきたのだと思います。
一方、周りに対しては、もどかしいほどに気を使う人だったようで、そのせいで大変な思いもしています。50代の頃、病院で検査を受けることになり、医師が細い管を腎臓に通そうとするのですが、どうしても突き当たってしまいます。“おかしいな”と突くたびに、激痛が走ります。それもそのはずで、19才の時に腎臓の片方を手術で失っていたからなのです。医師の気持ちを傷つけてはならないと、祖父はだまって耐え続けました。そのうちに、医師も気づきやっと痛みから解放されたそうです。“良かった。破れる前に気づいてくれて”と言って出てきたことを、その時待合室にいた長女佳子(私の母)は“信じられない!”と今では笑いながら話します。そんな祖父ですから、心労が重なって体を壊したのも当然だったのかもしれません。
小さな頃の思い出です。大雑把で、封筒の宛名を書き損じることがよくあった私は、母に怒られました。“おじいちゃんでさえ下書きをしてから宛名を書いたのよ。”書家でもあった祖父は、人柄がにじみ出るような、温かい書を多く残しています。仕事の合間に、一通一通丁寧に宛名を書いた祖父。今思うと、そのエピソードが祖父の人柄をもの語っているようです。
  手元にあるもう一枚の写真は、晩年の研究所兼自宅を訪れた私と妹が、祖父にかわるがわるうどんを食べさせてもらっているところです。一枚目の写真と同様、やはり柔らかい祖父の表情。もちろん40年という月日は刻まれていますが、一つの道を求め続けた厳しさ、まして疲れは感じられないのです。
そういえば、祖父について語る人達の表情にもどこか通じるものがあります。「力真(りきま)」と親愛をこめて祖父を呼ぶのは、家族や元研究生の方たち。誰もがちょっとした失敗談やおっちょこちょいな一面など、笑い話の中で宗廣力三を思い出しているようなのです。それは、祖父自身が、瑞々しい感性や新鮮な驚きを失うことなく、「心」と「美」を求め続けたからかもしれません。

              吉澤 朋



【宗廣力三生誕100年を記念して、2014年1月15日から20日まで銀座ギャラリーおかりや(03-3535-5321)にて開催される「宗廣佳子の紬展」でも、宗廣力三作品が展示されます。ご高覧ください】
    (2013/10 よこやまゆうこ)

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