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<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-4

中川幸夫さんを特集した銀化八十六号表紙と、『君は歩いて行くらん』表紙。
<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-3
はやシリーズ4弾目となる季刊「銀花」の元編集長・萩原 薫さんによる編集回顧録。今回は、強烈な印象で生け花の可能性を見せてくれたアーティスト中川幸夫にまつわるエピソードです。
「花人・中川幸夫さんの魔法」

前衛生け花の巨人として知られていた中川幸夫さんの自宅は、東京・中野坂上のバス停にほど近かった。住所を頼りに2階建て木造アパートを見つけ、外階段を登る。ドアを開けてくれた中川さんは開口一番、「狭いから気をつけてね」。

入り口脇のキッチンを横目に、通された部屋は六畳ほど。一方に窓があり、対する壁一面は本棚で、花器なども収まる。7年前に夫人を喪い、以来この一間に一人暮らす主は、卓上に大きなガラス角皿を静かに置いた。分厚い緑がかった氷の塊のごとき器には、柔らかな紫のトルコ桔梗が二茎。水羊羹が載せられて脇には赤と白の大柄のおしぼりがある。志野茶碗で薄茶もいただいた。花人は当時73歳。編集者は47歳。「季刊銀花」第八十六号の特集打合せの、初回であった。

中川さんは四国・丸亀出身。3歳で罹った脊椎カリエスのため、身長は成人してからも1mを少し超えるほど。祖父が池坊で立華の名手だったこともあり、早くから生け花に親しんだと聞く。その後の話はたとえば『君は歩いて行くらん』(早坂暁著/求龍堂刊)などに詳しいが、非常な天分と大変な努力の末、京都の作庭家・重森三玲に認められ、衆目を集める前衛「生け花」を開花させてきた。

学生時代から細々と続けていた私の茶道の師匠は、大学の大先輩・杉浦澄子さん。彼女からよく中川さんの仕事について聞いていた。「銀花」の編集に携わってからも杉浦さんには執筆を頼んだりで交流は絶えず、希有な花人の存在を読者に伝えたいと、強く願うようになった。作品は『魔の山』と題された豪華な写真集などでも見知っており、陶芸の鯉江良二さんの展覧会ほかで数回は出会えていた。

振り返るとずいぶん厚かましい願いだったと思う。「銀花」の原稿料や取材謝礼は同じ文化出版局の中でも低く抑えざるを得なかった。発行部数が月刊誌「ミセス」や「装苑」と比べ、遥かに少ない。花人の特集と言っても、花材や撮影場所の手当に圧倒的に不足が出る事は初めから明白。けれどこちらの依頼にこたえ、電話口の中川さんは明るい声で承諾の返事をくれた。「面白そうですね、やりましょう」。

<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-4


桜、木瓜、梅の生けられた中川さん自作の花器に、花人はふっと魔法をかけた。観音開きのページを開くと「魔の山」などが現われる。
<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-4


右は陶芸家八木一夫の手になる青銅の経筒に、金箔を貼った朴の葉など。左は白い大輪の牡丹。いずれも澄心庵にて。

撮影場所は3カ所と決まった。中川さんと親しい和のアートスペース、東京・中野の「シルクラブ」と杉浦澄子さんの東京・荻窪の茶室「澄心庵」、そして山中湖近くの河原。池坊を脱退し、一切弟子をとらない中川さんだが、彼を尊敬し手助けする若い人が2人、加勢に来てくれた。どの現場にもわくわくする驚きがあったけれど、シルクラブで満開の桜と梅、木瓜に対した時が忘れられない。清々しい木造の舞台を見下ろす大空間に据えた自作のガラス器に、今が盛りと咲き香る花々が、伸びやかにたくましく生けられて行く。しかし、花人はもう一つ、納得が行かない様子。そして傍らにいた私にそっと伝えた。「パック入りの牛乳を買って来て下さい」。「は?」。大急ぎで揃えた牛乳を中川さん、花器の水に注いだ。すると花々の裾に白い雲が湧くような不思議な風情が現れた。「澄心庵」では前衛陶芸家・八木一夫の手になる青銅色した経筒の、蓋と身の狭間に金銀箔を貼った朴の葉を噛ませた。葉の上には龍の髭の実が点々と据えてある。
<番外編>作るから使うへのつなぎ手 その3萩原 薫の「銀花」な日々-4


中川さん自身の撮影になる2点。左のタイトルは『死の島』1985年の作。右は『魔の山』紅のチューリップ花弁を積み上げた1989年の作品。

仕上がった特集ページには夥しい深紅のチューリップの花弁を積み上げた作品「魔の山」や、花の滅びをテーマにした「死の島」など、中川さん所蔵の作品写真も拝借、花の命を見据える彼の姿勢を何とか伝えようと務めた。花人が最も好きという中野重治の詩の一行も、書き留めた。曰く。

おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
(中略)
胸さきをつきあげてくるぎりぎりのところを歌え
(後略)

「銀花」ではほかにも(足元の自然讃)と副題をつけた「東京の雑草」、編集者4人がそれぞれ現場に散って取材した「日本の花守たち」、山の花と人と本が主題の「高嶺の花」、カメラマン小林庸浩さんが長年追跡したテーマ「ヤブツバキ光る」など、花と日本人の関わりを巡る特集を重ねて行った。突出した個人の<胸さきをつきあげてくるぎりぎりの>表現としての花、列島の自然と歴史を彩る花、見失いがちな足元を照らす花々ーーー。さまざまな「花」を愛でた「銀花な日々」ではあった。

(写真はすべて筆者)


萩原 薫プロフィール
1966年東京女子大社会学科卒業。同年より、 文化出版局編集部に所属。
2児の育児休職計1年半を含めた38年間を、同じ職場で雑誌や書籍の編集者として過ごす。主な仕事は雑誌「季刊銀花」編集、暮らしを彩る手仕事を巡る書籍の編集など。後に文化学園大学、文化服装学院で非常勤講師。現在はごくたまに友人に頼まれた私家版限定本の編集など。

(2018/10 よこやまゆうこ)

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