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村山大島紬を守る田代隆久さんを訪ねて


『布づくし・展 日本の布200選』の出展者を訪ねる工房探訪シリーズ・その25は、村山大島紬を作り続ける田代隆久さんです。
一昔前までは、着物を着る女性なら必ず一枚は持っていたといわれるほどポピュラーな村山大島紬ですが、武蔵村山市で今でも絣染から織りまでを続けているのは、田代隆久さんの田房染織一軒だけになってしまいました。
田代さんが3代目として家業を継いだ背景には、父悦康さんの哲学があったようです。それは、“力量に応じたことをすること”“良いときには悪いときのことを考え、悪いときには良いときのことを考えなさい ”というものです。茶の間の鴨居には、初代の祖父母と2年前に亡くなったお父様の肖像画が、今とこれからの田代家を見守るかのように掛かっています。

     
 
     
    昭和50年、通産省により伝統的工芸品の指定制度が作られ、村山大島紬も第一次指定品に選ばれました。これを機に扱う業者が増え、作れば売れるという時代が到来。地元は活況を呈し、事業拡大をするメーカーが増えました。東北地方に半自動化された織機工場をもち、量産を目指すようになりました。が、5年後には早くも陰りが見えはじめ、次々と工場を閉めるところが出るありさま。20代でこの様子を見ていた田代さんは、“一人一人の手しごとはよくやっていても、織物の知識のない人が間に入ったり、産地に指導者がいないと、賃仕事は不況になるとすぐ廃業する。ハートのないもの作りは続かない”と思ったそうです。田代家はそうした状況のなかでも“分をわきまえ”た家業としてやってきたおかげで、現在まで続けてこられたと思っているそうです。
     
     
    村山大島紬が愛されてきた理由のひとつに、軽いことがあります。それは、1200本ほどの経糸は150デニール、緯糸が180デニールと、細目の絹糸を平織りしているからです。通気性に富みかつ保温性にも優れていることが、気軽なふだん着として好まれました。また、村山大島紬は、いちばん手間のかかる経緯絣。経糸と緯糸は絣模様にしたがって彫り目をつけた板に糸を挟んで染める板染注入染色、色差しは摺り込み捺染とよばれる手法がとられます。
絣板は、樹齢100年ほどの水目桜が使われます。一つの柄を出すのに80-150枚の板を使い、大柄になるほどたくさんの板が必要です。工房の一角には、ざっと100パターンはあるという絣板が天井に届きそうに積み上げられています。時代とともに柄ゆきも斬新なものが求められ、常に新柄をだす努力も怠れません。隆久さんは、新作ですでに5回も大臣賞を受賞しています。
     
 
     
    24歳になるご子息の剛章さんに荷出しの準備をしている反物を見せていただきました。中でも目を引いたのは、紬の絣にさらに絞りを加えたもの。落ち着いた色合いの多い村山大島紬ですが、二つの技法を重ねることで、より奥行きのある着尺になっているように思いました。
跡継ぎもでき、家業として着実な将来が約束されている田代家ですが、懸案は販路獲得です。問屋が動いてくれれば作ることに専念できるのですが、昨今は自分で出向いてゆかなければなりません。着物を着るお客様には納得した品を求めてほしいと願うので、遠くの地まで足を伸ばすことを厭いません。また地元の小学校に請われて、職人としての話をする機会が増えました。最近では地元でも村山大島紬のことを知らない子が多くいるほど、存在感の薄い産業になっていることに危機感を感じています。田代さんの熱のこもったお話のあとには、子供たちから礼状が送られてきます。“大人になったら村山大島紬を着たいです”の幼い文字に、田代さんの村山大島紬にかける情熱が子供たちにしっかり届いていると感じました。趣味はジャズとスキーという田代さんと、地域で一軒になってしまったことに責任を感じると、自ら望んで家業を継ぐ選択をした剛章さん。親子チームが誠実な手しごとを守っていってくれそうです。
     
   
     
    4代目剛章さんが作ったサイトに詳しい工程が紹介されています (http://www.h2.dion.ne.jp/~tahusa/)
連絡先:田房染織 042-560-0116
     
   
(2005/4 よこやまゆうこ)

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